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(写真:茂木町深沢) さて、栃木県は農業県といわれ、首都圏に 野菜や乳製品などを供給してきました。 そして、一方で近年は工業団地という顔ももち 様々な工業製品の供給地としての役割も担っています。 製造すれば物流業も必要となり、働く人が増えれば 住宅地も造成されます。そして、住宅地周辺には 大規模商業施設などができ、飲食・レジャー産業も盛んになります。 農林水産酪農業、そして工業、観光業… それが栃木県の現在の姿です。 では、かつての栃木県ではどうだったかというと、 やはり同じように、農業の周辺には、様々な職種が存在したのです。 今ではすっかりお目にかかれなくなりましたが 薪炭の需要があった昭和30年代頃まで、山では 炭焼きをする人がいました。 また、日光市小百では、栗山村方面との物資の輸送を担う 「駄賃付け」という馬による運搬仕事があったと聞きました。 那珂川や鬼怒川などの川では舟運が盛んで 県内の各河岸では江戸や東北方面との物資が行き交い 河岸周辺で商いをする人々がいました。 そうした河岸や街道の宿場町は、各地からもたらされた 文化の入口としての役割も担いました。 また、多くの農民たちも、田畑での農作業のかたわら 様々な仕事に従事していたといいます。 こうした様々な産業と農業林業酪農業などがからみあい 農業だけでなく、様々な業種の人々が栃木県に存在したのです。 また、栃木県には那須地域に入植してきた人々の 苦難の歴史があります。 那須野が原には、長野県や富山県からやってきた人たちが、 福島県にほど近いところには、終戦後、満州から引き揚げてきた 開拓の人々が住み、暮らしています。 私たちは取材を重ね、各地の歴史を知るうちに 長年かけて積み重ねられてきた土地の歴史を 美しい田園風景の向こうに、見ることができました。 9dc75d54.jpg
(写真:2011年夏/杉線香の粉をつく日光市大室の水車) 未来もこの田園風景を残すことができるのか。 2011年の震災後まもなく始まったこの番組では 奇しくも、そんな日常の田園風景を 改めて見つめ直し、問うことになりました。 高齢化や過疎化などの問題を抱えていた農村部では 原発の事故による放射能汚染がさらに追い打ちをかけ 安全で安心な農産物を地道に作っていた農家にも 打撃を与えました。 酪農業で飼料として使われる稲藁や 堆肥に使われる落ち葉の汚染問題も 循環型農業へと向かう取り組みに水をさす形となりました。 取材で聞いた不安の声は数限りなくありました。 そして、今もなお余震が続き、首都圏でも近い将来 大地震が起こるであろうと予測される今 それでも、土と暮らす人々は田畑に種をまき続けています。 福島県で、放射能汚染によって 村から避難しなければならない人たちが口にしたのは おしなべて、「先祖から受け継いだ土地を離れられない」 という言葉でした。 受け継いだ土地も持たず、農業に従事しない自分には 「なぜそこまで固執しなければならないのか、 地球という環境に、自分のものも、他人のものもないのではないか」 という考えがずっとありました。 しかし、県内で取材を重ねるたびに 「先祖から受け継いだ土地を守るには、耕し続けねばならない。」 という言葉をよく聞きました なんと力強いことばかと、心中ひそかに驚きつつ これこそが、その土地で暮らす人間の使命感なのだと。 連綿と続いてきた「受け継ぐ」という人の営みなのだと感じたのでした。 こうした一個人のつながりが集落全体のつながりとなり リレーが続くことによって、この田園風景は守られてきました。 しかし今、高齢化や後継者不足によって 各地で耕作放棄地が増えていることもまた現実です。 集団営農という選択や、遊休農地の活用にオーナー制度の試みも 各地で行われ、私たちが取材したこうした地域では 都市住民との交流が実現し、集落の活性化に結びつきつつあるようです。 でも、それができる地域ばかりではありません。 こうした試みをまとめる、コーディネーターの存在も必要なのです。 これから、取材した各地域はどのように歩んでいくのか、 試みはまだ始まったばかりです。 (その3へ続く)